愚かな人の話
『FORTUNE』の感想を千穐楽の日に上げようと思っていたのですが、新型コロナの影響で明日以降の公演が中止になってしまったので、本日公開することにしました。
平穏な日常の上にしかエンタメは成り立たないのだと、何よりも平穏であることの大切さを強く実感しています。
一日も早くこの事態が終息しますように。
また、この記事はあくまで個人的な覚え書きなので、未観劇の方には分かりづらい点もあるかと思います。ご了承ください。
愚かな人の話だ。
ズルは上手くいかない、そんなことで幸せにはなれない。
愛に縋ったけれども、満たされることはなかった。
舞台の照明が落ちたときに、そんな風に思った。
後味は決していいものではなく、居心地の悪い不快感が残った。
紙で指先を切ったときのような、じんわりとした痛みと苛立ちと気恥しさ。
私はフォーチュンを馬鹿な男だと嘲笑する気持ちにならなかった。
あんなにも自業自得の結末だったのに。救いようのないどうしようもなさだったのに。
出来心であっさり道を踏み外すし、相手の都合なんて考えずに行動するし、自分がやらかしたことに後悔はあっても結局のところ反省はしない。本当にどうしようもない奴だな。
なのに「あぁ、罪を犯した人はそれ相応の報いが待っているのだな!ざまぁみろ!」とはならなかった。
とてもじゃないが、彼のことを切り捨てることが出来なかった。何故。
ストーリーテラーという言葉がとても印象に残っている。
人間はストーリーを語る動物で、そしてよりよい人間になれるようストーリーテラーを求める。
そのように物語の中の脚本家が語っていた。
なるほど、この物語は「私の」物語なんだ。
この舞台は入れ子構造になっていて、物語の中の脚本家はフォーチュンの物語を語るストーリーテラーだ。
しかし、その物語の中の脚本家の言葉は現実世界の脚本家サイモン・スティーヴンスの言葉でもある。現実世界の脚本家は現実世界の「私たちの」物語を語るストーリーテラーなのだ。
フォーチュンの愚かさは、ストーリーテラーの語る「私の」、「人間の」愚かさだ。
だから私はフォーチュンのことを笑えなかった。
フォーチュンは語られた私だから。
この愚かさは全ての人間が抱えているもので必ず人は堕落してしまうのだろうか。
それとも、その愚かさに気付けた人間は道を踏み外すことなく真っ当な道を歩めるのだろうか。
この疑問は神とルシファーも抱いたもので、舞台の言葉を借りるならば、この世界はその決着をつけるためのゲームであるらしい。
メタファーではなく悪魔は実在すると思わせなければならない。
つまりこの物語もそういうことなんだと思う。
ありとあらゆる宗教が、哲学が、物語が道を踏み外すことなく幸せになるにはどうすればいいかを説いている。
フォーチュンの破滅を語ることで、この舞台を見る者に堕落と幸せとは?という永遠の疑問を問いかけているのだと思った。
私たちもまた神とルシファーのゲームに翻弄されている1人なのだ。
非常に残念ながら私にとってキリスト教が身近な存在ではないので想像でしかないのだけれど
この人間の愚かさがキリスト教における原罪なのだろうか。
愚かとは、ズルとは、愛とは。
フォーチュンの悪魔の力を借りて世界のルールを捻じ曲げようとした姿が愚かだった。
自分の幸せは自らの手で成し遂げなければ意味がないということを彼は気付けなかった。
愛を欲しがったから満たされなかった。
全てを手に入れる力を得たことで、逆説的にフォーチュンは何も得ることが出来なくなった。
手に入れるものは全て作られた紛い物で、真実の成功・真実の愛ではない。その絶望感と共にフォーチュンは地獄へ落ちていく。
ストーリーテラーであった脚本家マグウィガンは、脚本を書き上げたとき「記憶がない」と語っていた。
観客は(もしくはフォーチュンは)それが悪魔の仕業だと考え、彼を哀れに思ったかもしれない。けれども彼の興奮は彼にとって本物で、あの瞬間決して彼は不幸ではなかった。真実が重要なのではなく、物事をどう捉えるかに意味があるのかもしれない。
物語は、愛が核として話が進んでいった。
個人的には才能や芸術への執着の方が興味のある分野だったので、人に対する執着について少し共感しづらいところもあった。(え、映画の話そんなにさらっと流すの??とびっくりした)
この点もキリスト教門外漢の私の想像なのだけれど、選ばれずに愛されなかったということがフォーチュンに大きな絶望を与えたのだろうか。
結論としては、フォーチュンはマギーに選ばれなかった。
悪魔の力で、外圧によって、人の気持ちを操作しようとしたからだ。事実を知ったマギーはフォーチュンの元を去っていった。
ならば、マギーは、ルーシーの力が及んでいない自らの意思で、どのくらいフォーチュンのことを愛していたのだろう。少しはフォーチュンの魅力に惹かれ彼自身を愛してくれていただろうか。
プライベートジェットの話題のときに、マギーが「そんなの関係ない」と言っていた言葉が引っかかった。あの言葉はもしかしたらマギー自身の言葉かもしれない。
しかし、それを確かめる術はないし、そこに至るまでの所業を考えるとマギーと上手くいくべきとはとても言えない。
悪魔との契約という堕落を選ばなければフォーチュンは幸せになれたのだろうか。だが、悪魔と契約しなければマギーは夫と結婚を続けていただろうし。
考えれば考えるほどフォーチュンは地獄行きしかなかったように思え、なんだか可哀想になってくる。どうすれば彼は幸せになれたのだろう。
もうひとつの軸がフォーチュンの母親から息子に向けられた愛だ。見返りを求めない慈悲の心。
ただ、フォーチュンの母親は思い出の映画のこともプレゼントした香水のことも忘れていたし、帰らないでというフォーチュンの最後の願いも断ってしまった。
ここの解釈が難しくて、絶対的な無条件で与えられる愛などないということなのだろうか。
それか私が母親の行動を深読みしすぎているだけで、フォーチュンにとっては母親の存在は救いであったのだろうか。
欧米における親子の距離感が分からないので、なんとも言い難い。
個人的には母親が思い出の映画や香水を忘れていたのはとてもショックだった。
悪魔との契約によって死が確定しているフォーチュンにとっては治療の話も、あえてフォーチュンの視点から見れば頓珍漢な心配だ。そのことに対してフォーチュンはまるで親に心配をかけさせまいとする良い子のように振舞っていた。
だから最後の母親との会話は、私には最後の頼みの綱として縋っていた無条件で愛を与えてくれるはずの母親からも愛は得られず、絶望故の無力感のように見えた。
しかし、それが深読みだった場合、この唯一失わなかった絶対的な愛が地獄で苦しむフォーチュンの微かなよすがとなるのだと思う。
母親との関係の解釈によって物語の結末が180°変わってしまうので、この点についてはこれからも考えてみたい。
(ここから余談)
私は宗教と哲学の違いを、答えを出すか出さないかだと思っていて。
仏教においては執着をなくし他に影響されない自分を目指すのが幸せになる道と説いていて、おそらくキリスト教では絶対的な神の愛を心から信じることが幸せになる道だと説いている(はず)
哲学は物事の見方を示してくれるもので、ある意味今回の舞台もそのような宗教の解答をこんな風に解釈したよという哲学なのかなと思った。
だからこの舞台から正解を読み取ろうとすることはナンセンスなのかもしれない。答えは一人ひとりの胸の中に。
(以上、余談)
演者さんの感想としては
本当「森田剛」ほど、欠乏感に苦悩し母親の愛に縋る男を演じさせてハマる人はいない!!!最高!!!
なんなんだろう、あの満たされなさ。切ない。どこまでも哀れなんだけど、見捨てられない愛らしさ。
声がいいのかな。『ヒメアノ〜ル』でもそうでしたが、とにかくどうしようもないクズなのに、救われてほしいと願ってしまう。あの独特の剛くんの雰囲気、存在感。病みつきです。
私の解釈ではフォーチュンはシンパシーを感じさせる存在でなくてはならないので、まさに森田剛はフォーチュンにぴったりハマった役者だと大興奮です!!
てか、落ちていくフォーチュンの狂気を表現するダンスが、もう、もう!!
踊っているのに、踊らされている印象を受けました。
自らが作り出した狂乱の宴だったはずなのに、いつの間にかその狂乱に振り回されて自分でも止められない。
ダンスであんなにも強いメッセージを感じられたのが生まれて初めての経験で、鳥肌がたった。
あとこれは演出さんに金一封贈りたいって話なんですが
ラスト独房に入れられているシーンで、ガラス張りの箱に収まってる剛くん最高でした。
四方をガラスに囲まれた剛くんが真っ白な衣装でちょこんと箱の真ん中に体育座りをしている。あんなんみんな好きなやつや。
地獄へ落ちていく描写が、すごく怖かった。砂に埋もれる・沈むという身体的な死への恐怖が、そのまま地獄へ落ちていく心理的な恐怖になって背筋がゾクゾクした。
あまりに舞台に立っている人物がフォーチュンなので、カーテンコールで再登場しお手振りしてくれる剛くんを見て「あぁ、良かった!!」と思わず胸を撫で下ろした。地獄に落ちる可哀想な人は私が見た幻だったんだ。
(観に行ったのが丁度剛くんのお誕生日の後の公演で、41歳になった剛くんが41歳のフォーチュンを演じるのも巡り合わせだなぁと思いながら観ていました)
吉岡里帆さんを初めて知ったのは『カルテット』のときで、あの伝説の「人生ちょろかった!」で惚れた。
めちゃくちゃ褒めてるんですが、吉岡さんの人を見下した嘲笑、本当に上手いですね。めちゃくちゃ褒めてます。
夫が死んだ夜フォーチュンとキスをするシーンやフォーチュンの異常さに気付いて別れるシーンのあの罵り!!嫌らしさや下衆さがないスカッとした罵倒でした。別れ際、確実にこの男の心を可能な限りズタズタに傷付けてやる!!という強い意志を感じた。あの心理攻撃は効く。
声に意図を込めるのが上手い演者さんだなぁという印象。プールサイドでルーシーに操られているシーン。操られた愛おしさと本心では煮えたぎっている怒りを感じて、感動しました。
ルーシーを演じられた田畑智子さんがもうめちゃくちゃ素敵だった!!
ルーシーの、おちゃめで妖艶で冷酷で、ひとつに定まらないありとあらゆる顔を持っている悪魔らしい佇まいが最高でした。
何者でもあるルーシーは衣装替えがあって、その様々な衣装を見るのも楽しかったです。御御足がとてもお綺麗でした。
ラストのシーンで「ごめんね、こういうことになって」と言っていたのが印象的で。
それまでのシーンは全てルーシーがその場その場で求められる役柄を演じていたのに、あのシーンだけはルーシーの本音が見えたような気がしました。
演じている姿を演じる、本音を演じる。その演技の使い分けにめちゃくちゃ興奮しました。
ルーシーの役割を考えたときに、もしかしたら彼女は自分が悪魔ということに気付いてしまった司祭なのかな。
司祭は「神の正義と不正義の間で葛藤する」という脚本家のセリフがあって、悪魔でありながらフォーチュンのことを好ましいと思ったのも、揺れている存在だからなのかなぁと。
そもそも彼女もフォーチュンのように魂をサタンに明け渡した人なんだと思う。だからこそ、よりフォーチュンにシンパシーを抱いたのでは。
何も得られなかったように思えるフォーチュンだけれど、役割を超えた、ルーシーとの友情は手に入れていたんじゃないかなと思います。
それはとても尊いことだと思うのですが、まぁそれを聞いてたフォーチュンはそのことに気付く余裕はなかったでしょうが。
言葉に関して、英国人がアメリカ人のこと馬鹿にしてるのがよく伝わってきて面白かったです笑 英国人の皮肉の効いた自虐も。
英国人はカチカチした話し方をするし、アメリカ人はパリピなんだろうね。
今回は事前に台本を入手できたので、台詞は知った上で観劇しました。
もちろん台本が読み物として作られていないのも理由のひとつですが、やはり感情が揺さぶられる度合いがもう比べ物にならないほど違う。生の演技から伝わる情報量には圧倒されました。
舞台っていいなぁ。今回この舞台を見られた幸運に感謝し、これからも数多くの素晴らしい舞台に出会える日々が続くことを心より願っています。