おしりあつめたっていいじゃない

学生時代全力でスルーしていたジャニーズに今更ハマってビビっている社会人

『二十日鼠と人間』の約束を思う。

少し肌寒くなってきた10月19日金曜日…

平日にも関わらず私は地元を遠く離れた東京の地にいた。

何を隠そう、健くんの主演舞台を見るためだ。ついに平日に有給使ってまで遠征してしまった…

 

けれど、多少無理してでも行って本当に良かったと思う。

きっとこの物語は一生心の片隅に残り続ける、そんな劇を見ることができたのだから。

 

寝不足のふわふわする頭で書いた覚え書きですので、とっ散らかった文章になっていると思います、ご容赦ください。

観劇は1回・原作既読済みのネタバレ満載な感想となっております。

 

 

 

 

 

原作をほとんど忠実に表した舞台であるけれども、ただ小説をなぞっただけじゃない。

舞台の上で生身の人間が演じることによって生まれる、物語の存在感が半端ない。

私にとって『二十日鼠と人間』はそんな印象が強い舞台だった。

 

原作を読んだときの貧弱な私の想像力が生み出した諸々のイメージを遥かに超えるリアルな感情がそこにあり、とても受け止めきれないようなエネルギーの塊を浴び続けた3時間。

ただそこに座ってただけなのに、ひどく疲れた。帰りにフラフラしていたのはきっと知恵熱のせいだ。

 

勿論他のキャラもそうだが、特にジョージというキャラクターは、健くんが生身で演じたことでよりビビットになっていたと思う。

ままならない現実の中で抱える鬱憤をレニーにぶつけてしまうような狡さがあり、自分の存在価値をレニーに依存している弱さがあり、レニーが持つどこまでも純粋な心を尊ぶ敬虔さがあることを、小説で読んだときよりも何倍も強く感じた。

 

あとこの物語に笑えるシーンがこんなにたくさんあるとは思わなかった。

確かに小説の内容を思い返してみれば、ジョークなんかも飛び交ってたけど、文章を読んでるときは色々素通りしてたから、やっぱり生身の人間の表現力ってすごいなって思った。

勿論文字の表現力が生身の表現力に劣るって話ではなくて、小説の場合読み手の想像力に寄るところが大きいと思う。

 

基本的なキャラの解釈はほとんど私のイメージと同じだったけど、唯一びっくりした解釈はキャンディのキャラ。

もっと気弱でいじめられっ子ようなキャラだと思ってた、めちゃめちゃ陽気な人になっていた。

思い返してみれば確かにその解釈の余地はあったけど、原作からはコメディ要素を私の想像力では拾い上げられなかったから新鮮な驚きだった。

 

キャンディの犬の話のところも、あの飛び飛びの会話の意図が読み取れなかったから、キャンディの犬の対処に関する攻防だったのか!と目からウロコ。

小説を読んでいるときはモブにしか思えていなかったホイットがとても良い奴で愛着が一気に湧いた。

 

また演出の方の、原作では置いてけぼりになっていた登場人物に対する慈悲が感じられる演出のようにも感じた。

モブにしか思えなかったホイットを良い奴だと思ったのもそうだし、原作では蔑ろにされていたクルックスやカーリーの妻も丁寧に描かれていた。

 

流し読みじゃ掬いきれなかった色々な意図が、演技によってダイレクトに理解できたのが、the演劇体験って感じでとても楽しかった。

作品の中でおざなりに扱われていた存在に対して、それぞれの背景やこれまでの人生を思わせる細かい演出が施されていた。全てのキャラクター一人ひとりに愛が注がれている舞台だなぁと思った。

 

観劇して思ったジョージとレニーについてのこと。

 

ジョージにとってレニーは夢の象徴だった。

ジョージは頭が良いからこそ、一人きりだったら、あんな幸せな夢はきっと見られなかった。生き辛い現実にはそれぞれどうしようもない背景があって、それが分かってしまうジョージは可能性を一つ一つ自分の手で潰して、辛い現実に流されてしまう。

 

けれど小さな土地の話をするときのジョージは本当に楽しそうで、楽しいことに心からはしゃぐ子どものようだった。

それはレニーが心の底からその夢を信じていたから。まるで子どものように。ジョージを子どもに戻してくれるレニーがいたから、レニーが夢を見てくれるから、ジョージも夢が見れた。

きっとあの話をレニーにしているときだけは、ジョージも子どもの頃に誰もが感じていたあの無敵感に浸って辛い現実を忘れられたんだろうな。

 

レニーだけが背景なんて知らないと、素晴らしい未来を心の底から信じ、今を変える力を持っていた。直接的に何を出来るわけでなくても、レニーがいなければ、ジョージだけでは夢を信じることはできない。

その思いが、終盤キャンディの懇願にも似た誘いに頷けなかった理由だと思う。

 

ジョージは、自分の話し相手という点を除いても、レニーのその純粋さに普遍的な価値をとても感じていたと思う。

誰もがお互いを怖がっている世界とは、誰もが自分を傷付けてくるかもしれない世界で。そんな世の中において、決して人を自らの悪意によって傷付けようとしないレニーの存在に類まれなる尊さを感じていたんじゃないだろうか。

理解されないそのかけがえのない尊さを、唯一気付いたジョージだけが懸命に守っている。そんな使命感に近い何かを感じた。

価値あるものを守ることでまた、ジョージも自分のことを価値ある存在だと思えたのかもしれない。

 

ラストの展開は、原作を知っていたけれど、それでも切なくて悲しくて、言いようのない苦しみに襲われた。

 

舞台では、彼女があの農場から逃げようとしていたシーンがある分余計に、死体を隠して彼女が逃げたことにして、そのまま2人で暮らすことは出来なかったのかと考えてしまう。あまりに道理に反する選択肢ではあるけれども。

けれど、ジョージは逃げずにレニーの罪と向き合った。

 

最後ジョージがレニーを撃ったのは、レニーを天国へと送るためであり、それは救いだったと思う。

愚かでかけがえのないレニーの犯した罪を、ジョージは自らの幸せや夢と引き換えに償ったのかもしれない。ジョージこそレニーにとってのキリストだった。

ジョージが自らの手でレニーを天国に送ることが、あの時のジョージが出来た最大限のレニーの尊厳の守り方だったのではないか。

 

ジョージがレニーと約束するときにするお互いのキツネの手を向かい合わせるのポーズがとても愛おしかった。そこにジョージのレニーに対する思いやりの積み重ねが感じられてキュンとした。

物覚えがどうしようもなく悪いレニーのためにジョージが考えてくれたんでしょ。もうどうしようもねぇと見捨てるんじゃなく、こうすればお前だって覚えられるだろって。嗚呼、2人の絆…。

 

原作の流れを知ってたから中盤の幸せなシーンでも泣いていたし、勿論ラストシーンでも号泣して。

ジョージとレニーが一緒にいるだけでほぼほぼ泣いていた。

 

健くんの演技について。

 

満たされなさ故の苛立ちの表現がとても上手いと思った。

ただ怒っているのではなく、その根底には不安や怯えといった弱い心があることを感じさせてくれる表情や声色だった。

 

ラストシーンの健くんの言葉にならない演技が途轍もなかった。

レニーを失いたくない、でも自分がやらなければならない。最後は自分の願いよりも使命感が勝った苦渋の決断だったと思う。

そんな胸が引きちぎられるような葛藤を表情で、仕草で、見事に表現し切っていた。そのような気持ちを示唆するような台詞はないのに、痛いほどジョージの感情が伝わってきた。農場に来る前に幸せそうに語った夢を、最後は胸の痛みに悶えながら語ることになるなんて。

絞り出すような、震える健くんの声が今でも鮮明に耳に残っている。

 

ちょうど私の席の真ん前の席が関係者席だったっぽく、冒頭まぁ期待せずに見ますよって態度で見てたおじ様がいらっしゃったんですけどね。

ラストシーン姿勢を正して見てて、健くんのカーテンコールでめっちゃ拍手しててすごく嬉かった。(うちの健ちゃんすごいでしょう!!!)

 

物語のテーマについてもいつか深く考えたい。

今回の舞台では「孤独」が大きなテーマの1つだった。

物語にはジョージとレニーという友人同士と、カーリーとその妻の夫婦という二人組が2組あった。

相手のことを必要としているという点では、2組の間にそう違いはなかったと思う。では、ジョージとレニーがお互いの関係に満足していて、カーリー夫妻が不満を抱えていたのは何故だろうか。

もう1つのテーマ「希望」とは何かも考えれば考えるほど考えがまとまらない。

ジョージやレニーにとっての小さな土地、キャンディの若い頃の高級売春宿の思い出、カーリーの妻のスカウトの話。どれも彼らにとっての希望だったと思う。

実現可能性はさほど重要でない。思い出など不可逆だ。なのに何故それらが救いになったのだろうか。

 

また、原作を読み返しつつ、自分なりの答えを探していきたいと思う。

 

これほど感情が揺さぶられることがあろうかいうほど一つひとつが心に刺さる、とても濃密な時間だった。

原作も、演出も、演者も、この劇に関する全ての要素が最高で、とんでもなく贅沢な空間だったと思う。

 

二十日鼠と人間』は、胸の中に大切に仕舞っておいて時々取り出して眺めたい宝物のような作品になりました。こんな素敵な舞台に出会えて本当に良かったです。

 

拙い文章を最後まで読んで下さりありがとうございました。